玉磨かざれば光なし
【漢字】玉磨かざれば光なし
【読み】たまみがかざればひかりなし
【意味】どんなに有能でも人格を高めないと立派な人間にはなれない。
【例文1】利益ばかり追求しても玉磨かざれば光なしだ。
【例文2】お客様の意見を取り入れてこそ玉磨かざれば光なし。
【例文3】学歴はあっても玉磨かざれば光なし。
玉磨かざれば光なしをテーマにした記事
「玉磨かざれば光なし」を常に心に留めて生きたい
「玉磨かざれば光なし」とは「どんなに立派な玉であろうとそのままにしていては光らない」という意味から派生し、「人はどんなに素晴らしい才能や資質があろうと、実際に日々の努力や鍛錬なくして立派な人間にはならない」という意味です。
このことわざは私たちが日々生活する上で常に頭の片隅に意識して置いておきたい言葉ではないでしょうか。「玉磨かざれば光なし」とはよくいったもので、どの道においてもトップをきっている人というのは、必ずそこ(=光)にたどり着くまでに相当苦労や努力を積み重ねてきた人なんだと思います。どうしても人間は楽なほうへと逃げてしまう傾向がありますから、私たちが自分のもっている玉(=精神)を磨いて、努力と鍛錬を積み重ねて立派な人間になるためには強靭な精神力と時間が要求されるでしょう。
今や日本代表のテニスプレーヤーとして大活躍している錦織選手はまさにこのことわざにピッタリ当てはまるような存在だと思います。彼は幼少期から自分磨きを怠ることなく磨きに磨きをかけてようやく今の地位にまで昇りつめた選手です。そしてその光となった今でさえ、なお玉を磨いている姿は誰が見ても頭が上がらないのではないでしょうか。
頭だけで理解するのは簡単ですが、行動に実際移して実践するのがどれほど難しいか、ということを物語っている言葉そのものだと思います。
「玉磨かざれば光なし」と「瑠璃も玻璃も磨けば光る」
「玉磨かざれば光なし」は「たまみがかざればひかりなし」と読みます。
玉とは玉石(ぎょくせき)のことで優れた才能を持つ人材を指します。
つまり、優れた才能を持つ人材であってもそのまま通用するものではなく、鍛錬や修学することで立派な人物となるという主張です。
これに対して「瑠璃も玻璃も磨けば光る」は、世の中には優れた人材はどこにでもいるという意味です。
しかるべき教官をつけて才能を伸ばすべく教育すれば大抵の人はそれなりに使い物になるので、まず間違ってはいないでしょう。
しかし現代において瑠璃(るり)は宝石の一種ラピスラズリ、かたや玻璃(はり)はガラス、窓やらコップに使われるガラスです。
あまりにも価値がありすぎて言葉を表記通りに受け取ると、光を反射する程度にはなるという後ろ向きな意味にもなりそうです。
実際、同じ時間をかけて同じだけの修練をさせても才能のあるなしは如実に現れてしまいます。
生まれが全てとはいいませんが、個人差というものは残酷なまでに結果に出てしまうものです。
才能に溺れて失敗する例もありますが、才能がある人間がさらに努力を重ねた場合、平凡な人間には到底追いつけないように思えます。
とりあえず究極超人には人並み以上に働いてもらい、平凡な人間はそれなりの努力でそれなりの働きをするのが無難なようです。