和して同ぜず
【漢字】和して同ぜず
【読み】わしてどうぜず
【意味】人と調和はしても道に外れる事はしない。
【例文1】父母は和して同ぜずの人生を送る。
【例文2】和して同ぜずの信念を持つ。
【例文3】周囲に惑わされない。和して同ぜずだ。
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小・中学生にありがちな傾向です
和して同ぜずという言葉は、小・中学生によく似合う言葉であると思います。
意味は、誰とでも調和していくことは大事であるものの、道理や信念を忘れてまで人に合わせるようなことは決してしないようにすることを言います。
小・中学生においては、自分が仲間はずれにならないように自分の考えまで曲げて友達に付き合うこともあります。
仲間はずれにされることが嫌な年代であり、さらに最近のいじめにも発展しうることもあります。
ただ一方で、この時期は大人への成長過程において大事な時でもあります。
例えば、自分の考えのよりどころとなる軸が持てるかどうか、とか自分の中の物事の分別が持てるかどうかなど、道理や信念の基礎となるものが作られる時期です。
一方で、大人でも道理や信念を忘れてまで人に合わせることをする方もいらっしゃいます。
人に合わせてしまうのは楽なことかもしれません。
人に合わせるということは、特に自分で考えなくてもついていけばそれなりの成果がでることにもなります。
ただ自分で考えなくなると、以後の成長は期待できません。
ましてや、生産性や成果が益々求められる現代や将来においては、道理や信念をきちんともち、かつ協調性のある人材が必要です。
このような人材になるためには、小・中学生において、考えの基礎づくりをしっかりする必要があります。
和して同ぜず。主体性を持ったうえで人と交わることは、人間関係の基本です。
「和して同ぜず」-人と争わず、仲良くするけれども、自分自身というものをしっかり持ち、いたずらに己を曲げたり調子よく相手に合わせたりしない、という意味です。
あまりにも有名な言葉ですが、もともとは孔子が「論語」の中で「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と未熟な人間と比較する形で述べた言葉です。
人と交わるけれど、自分の主体性はしっかり持つ。当たり前のことじゃないか、と多くの人は考えますが、実は人生を生きる上でこれほど難しいことはそうそうないように思われます。
特に我々日本人のように、ともすると大勢に流されやすい国民は、この言葉を良く胸に刻むべきかもしれません。
どんな小さなコミュニティでも、日本人はその集団の「和」をとても大切にします。
皆が争わず、一つにまとまることは美しいことですが、何か問題が起きたとき、何が正しいのか、何を追求するべきかを見極めずに、集団としてまとまることが最優先されがちです。
そんなとき、「皆さんと付き合うが、自分には自分の信条がある。それを曲げたくない」と言える勇気のある人こそ、真の君子と言えるのかもしれません。
そして、全ての人が他人と協調しつつ己の信条を貫くというあり方こそが、風通しの良いコミュニティと言えるのではないでしょうか。
どこかのコミュニティに属していて、息苦しい思いをしていたら、この言葉を思い出し、その意味をもう一度自分に問いかけてみるといいかもしれません。
「和して同ぜず」の言葉を残した孔子とは
「和して同ぜず」は論語の中に出てくる言葉です。「和やかな関係の人であっても、むやみな同調は有害である」という意味です。論語は中国春秋時代の思想家である孔子が、彼の死後にお弟子さんたちが、孔子やその門人たちの言葉をまとめた書物で全二十巻にも及びます。「論語読みの論語しらず」という言葉まであるように、論語は「仁」、「礼」について説かれていますが、論語の中にも相反するととらえられる文章もあり、これを全て体現することはなかなか、引用するにも臨機応変、柔軟な対応が求められます。そういう意味でも論語を読むことはできても、それを識ることは難しいのです。そんな孔子の容貌について「史記」や「孔子家語」によると、生まれつき頭頂部にへこみがあり、額は張り出し、目は引っ込んでいて身長は九尺六寸(約2,16メートル)もあり、長人と呼ばれていたそうです。体格はよく容貌は魁偉であったようです。世界の偉人は時により、すごく体躯の良い方がおられますよね。イエス・キリストやお釈迦様も体格が良かったそうですし、秦の始皇帝も大男だった記述があります。孔子は「仁」という言葉で人間としての愛情を表現し、この「仁」を思想として広めることで、崩壊の危機に瀕した周王朝を救おうとしたと言われています。恵まれた体格を生かし、遊説に回ったという孔子はきっとアクティブな方だったのですね。