十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人

【漢字】十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人
【読み】とおでしんどうじゅうごでさいしはたちすぎればただのひと
【意味】10歳で神と呼ばれ15歳で天才と呼ばれ20歳過ぎれば凡人となる。幼少期は優れていても成長するにつれ普通の人となることが多い。
【例文1】幼少期の暗記力がズバ抜けてよかった。十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人にならぬよう習い事は続ける。
【例文2】ジュニアクラブで活躍した彼は太って、十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人で今ではただのオジサン。
【例文3】子役も十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人。

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どんなに素晴らしいと評価された子どもも大人になったら凡人

昔の人は、十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人とはよく言ったものです。どんなに素晴らしいと評価された子どもも大人になったら凡人だと言う意味の言葉です。
確かにテレビを見ていても、天才子役とチヤホヤされていた子どもがいつの間にかテレビ業界から姿を見せなくなることも、珍しくないです。本人の意思で消えたのか、凡人になってしまったのかは本人のみぞ知るところではあります。
いつまでも神童や才子ではいるためにはものすごい努力が必要だと思います。久々にメディアにでた芸能人があまり変わっていなかった事がその証拠ですね。
私の周りに十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人のような方がたくさんいます。一人はあんなに綺麗でスタイルも抜群だった彼女は結婚して子どもを産んだら20キロ太ってただのおばさんです。逆に不良グループでやんちゃしていた同級生は父親になって商売が成功して従業員を抱える社長にまで成長しました。学歴がどうこう言うのではなく本人のやる気次第ですね。

いい大人になった今、胸に引っかかる言葉「十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人」

みなさんはこの言葉、聞いたことがあるでしょうか?日本に古くからある言葉で、いわゆることわざというやつです。意味は読んで字の如く、10歳の頃には神童と呼ばれてもてはやされていた人物であっても、15歳の頃には才能のある子供、20歳を過ぎてしまえばありふれた平凡な人間となってしまうという、皮肉にも感じられる意味をもっています。
私の心になぜこのことわざが引っかかっているかといえば、まさに私自身のことを表しているようでやりきれない気持ちになるからです。神童には到底及ばずとも、私が10歳の頃といえば学校で「頭のいい子」としての扱いを受けていた時期でした。同級生には「〇〇君は天才だよね!」とか「頭いいよね!」とか、小学生なりに精一杯、勉強ができることを褒められ、私自身も誇らしく思っていました。しかし中学生となり15歳を迎える頃には、小学生の時ほどの抜群の成績は取れず、こんなはずではないと困惑しはじめていましたが、それでもそこそこの成績を維持し、校内順位では真ん中より少し上くらいの成績でした。さて、これまで勉強以外に特別自信を持てることもなく学生生活を送ってきた私もついに20歳を過ぎ、現在は大学を卒業しています。現在の私といえば、公務員試験に不合格となり、諦めきれずに就職浪人をしております。新卒の就職活動では特にアピールできる経験などがなく、面接で苦労しました。公務員試験においてもいくつか筆記試験で落ちています。これまでなんとなく生きてきた私は、このことわざは自分を高める努力を怠ってはいけないという戒めの意味を持つのだと考えるようになりました。幼い頃から頭がいいと褒められ天狗になった私はその後も大した努力もせず、そこそこの成績で満足し、なあなあに学生生活を送ってきました。その結果が今の私となって表れています。勉強だけでなく、他の要素でも自分を高める努力が足りていなかったなと感じる点は多かったと今になって痛感しています。20歳を過ぎたいま、「ただの人」であることを忘れず、自分を高めていきたいものです。