胸突き八丁
【漢字】胸突き八丁
【読み】むなつきはっちょう
【意味】元々は富士山頂で頂上まであと八丁と言っていた。急斜面の長い道のりは胸を突くくらい息苦しいことから、目的達成寸前の一番つらいところ。
【例文1】マラソンで胸突き八丁にさしかかった。
【例文2】胸突き八丁まできたら頂上まで後少しだ。
【例文3】胸突き八丁を過ぎてゴールは目の前だ。
胸突き八丁をテーマにした記事
「胸突き八丁」を潜り抜けてきた津田梅子
「胸突き八丁」とは山道で登りのきつい難所。転じて物事を成し遂げるのに一番難しいところのことです。津田塾大学を開いた津田梅子の生涯は険しい登り坂の連続でした。
津田梅子は千葉県佐倉藩士の娘に生まれました。7歳の時にアメリカへの女子留学生の募集があり、それに父が願い出て、アメリカに留学します。ホームステイ先で可愛がられて育てられ、11年後に帰国しますが、その時には日本語をすっかり忘れてしまい、母や弟妹と話をすることもできませんでした。その後、彼女の英語力が買われ、伊藤博文の家で通訳兼家庭教師として住み込みで働きます。伊藤の推薦で華族女学校に教師として勤めますが、日本の女子教育に息詰まりを感じ、再度アメリカに留学します。3年後に帰国した時には、自分の目指す女子教育のできる学校を作ることを志し、華族女学校で、明治女学校で教鞭を取りながら、資金を集め、女子教育への機運が高まり、女子高等教育の法整備がされると、女子英学塾を開校します。小人数での英才教育を理念に掲げた学校で初めの学生は10人程度でした。それから専門学校へと形態を変えますが、増える学生数に合わせ、教員も増え、用地確保や資金繰りには苦労しました。「胸突き八丁」の難所を幾つも潜り抜けてきた梅子は65歳で逝去します。それから19年後、津田塾大学は開学するのです。人間としても女性としてもオールラウンドを目指す彼女の精神は今も受け継がれています。